みなさんにとって、「仲間」とは何でしょうか?「絆」って何でしょうか?
私はずっと前から、
とか
みたいなことを声高々に、まるで雄叫びをあげる人や、それを肯定する考えが大の苦手です…。
なんでかな…、とずっと思っていたのですが、最近になってその理由が分かった気がしたので、ちょっと整理してみたいと思います。
同じような思いを抱いたことがある人、最近の「仲間教」「絆教」に辟易している人へ、本記事が何かしらの鎮痛剤になればと思います。
目次
その1.欠如した自立心と肥大化した依存心が気持ち悪い
ことあるごとに「仲間」や「絆」という言葉を口をだす人の気持って、一体どうなってるのかな〜と考えていたのですが、他者がいなきゃ自分は何もできないことを開き直ってるだけ(自己正当化してるだけ)なのではないかと感じました。
確かに誰もが皆、他者の力を借りなければ人生を生きていくのは難しいのは十分に承知しております。
ですが、何のために他者の力を借りるのかといえば、それはあくまでも自分がやりたいことをするために、もしくは自分が歩みたいと思う人生を歩むために、お互いに認め合った者同士で協力するからだと私は思うのですよね。
しかし、「仲間」や「絆」って言葉をやたらと主張する人たちを見ると、どうも繋がること自体が目的というか、お互いに依存し合う状態に快楽を感じているみたいで、正直うっとおしいというか、気持ち悪いなぁと感じます。
それはそれで一つの価値観なのでそこまでボロクソに言うべきではないのでしょうが、私はそういう人やそういう価値観で支配された場に出ると、なんだか居心地悪いなぁと思わずにいられませんねぇ。
漫画「ONE PIECE」における「仲間」観の強調
「仲間」という言葉を聞いてすぐ頭に浮かんだのが、人気マンガ『ONE PIECE』。
主人公のモンキー・D・ルフィが、秘宝ONE PIECEを手に入れるために海賊王を目指して冒険に出るストーリーなのですが、漫画の中で特徴的なのが「仲間」というキーワードで、よく頻繁に出てきますよね。
船長であるルフィ自体が、自分1人で生きていける自信がないことを受け入れた上で様々な仲間たちに声をかけている設定なので、「仲間とつながる」側面が強く描かれるのは必然ですが、大手メディアでもてはやされるようになってから一段とこの「仲間」という面がやたらクローズアップされてる印象が拭えないのです。
本来ならば、ルフィは海賊王に、ゾロは最強の剣客になるといった、クルー一人ひとりの夢や野望、それまでの経緯といった非常に奥が深いストーリーがあるですが、近年では「仲間」や「結束」といった面だけしか目立っていなくて残念に感じます。
作品を十分に理解されない人達によって、「仲間教」「絆教」だけが独り歩きしているのではないかと、そんな風に思うことがあります。
ちなみに麦わらの一味の中では、ゾロとウソップが好きです。
その2.表向きは良い事言ってるけど影で悪口がすごそう
仲間意識が強い人にありがちな特徴の1つに、その場にいない他者の悪口を言いふらす、という行為があると思っています。
誰かが人の悪口を自分に言ってきたり、もしくは自分がいないところで友達だと思っていた人に自分の悪口を言われていた、という経験は、誰もが中学や高校時代あたりでされているんじゃないでしょうか。
何故こんなことをわざわざするのかというと、いない人の悪口をいうことで、その場にいる人同士のつながり・絆を強化できる機能があるからなんですよね。これは仲間意識というよりかは、同じ秘密を共有する、ある種の「共犯関係」といった方が適切な気がしますが。
スケープゴートの理論 ※『友だち幻想』より
社会学者の菅野仁さんは、こうした悪口による人間関係構築のことを、著書『友だち幻想 人と人の<つながり>を考える』にて、「スケープゴートの理論」として紹介しています(菅野 2008)。
第三者(=ここにいない、私とあなたそれ以外の人のこと)排除することによって、その場の「あなたと私の親しさを確認しあう」ということなのです。A子さんとB子さんがいたとして、そこにいないC子さんの悪口を言って盛り上がることによって、A子さんとB子さんは、その場の親しさを再確認しているわけです。
( p48 菅野『友だち幻想』 2008)
これ、悪口を聞いている側の心理状態から考えると、もしその悪口に共感できるのであればうまい具合に信頼関係を構築できるのですが、その一方で、「この人は、私のいないところでは私の悪口言ってるんだろうなぁ」とも思われてしまうリスクを孕んでます。共感されなければヤバイのは言うまでもありませんよね。
ですので、人間関係構築の手段としてはとっても簡単で便利なんですが、いつ自分が裏切られるか分からないリスクを常に伴うという欠点があります。
悪口を通して、自分が他者から排除されないようにしているのですが、皮肉なことに実は自分が排除されるリスクを増やしているんですよね。
私の中学時代に、Y君という知り合いがいて、その子はその場にいないA君の悪口をB君に言いふらしておきながら、A君の前ではB君の悪口をいって、友達関係を築いていました。
結果的に彼は、自分が嘘をついていたことがバレてしまい、それこそ「オオカミ少年」のごとく、最終的に誰からも信用されなくなり仲間外れになっていました。もちろん私も彼の”悪口ネタ”にされました。
当時の私は非常に他者依存的な性格だったので、友だちだと思っていたY君の所業を聞いて、彼とは人間として付き合うのがもはや難しいなぁと思い至り、関係を絶ちました。
その選択は今でも間違ってなかったと自負しています。
その3.異質な他者に対する凄まじい程の排他性
仲間意識、絆意識が強い人が苦手だなぁと感じる一番の理由がこれです。
彼らは、自分達の考えに共感しない人や、理解を示さない人間、さらには得体のしれない人等に対しては、
驚くほどに冷徹
なんです。
映画『シン・ゴジラ』における官僚たちのゴジラへの排斥意識
映画『シン・ゴジラ』を見ていて思ったのが、人間って異質なものに対してとことん冷徹だなぁということ。
ゴジラという規格外の生命体であれば話は別かもしれませんが、自らの生活を確保するためとはいえ、「異質な存在はとにかく殺せ」という考え方は、人間としてあまりにも単細胞的で恐ろしいと感じることがあります。
特に、対話もせず調べもせずに「異質である」という理由だけで殺そうとする、または滅ぼそうとするのは、とてもではないですが、人間として尊厳を感じることができません。
確かに、異質な存在を受け入れるというのは決して簡単ではないですし、もし相手が侵略者やエイリアンのようなこちらに危害を加えてくる存在であれば、こちらもリスクを背負うことになるので、無条件に寛容であるのは難しいのは分かります。
ただ、これって自分が排除される側(例えば、いじめや仲間はずれ、集団無視のターゲットになること等)を経験したことがある人なら分かると思うのですが、排除されるのって、めちゃめちゃ苦しいんですよね。
逃げ場があればいいんですけど、中学や高校程度では行動範囲も制限されやすく、学校や家しかないって子がとても多いので、本当に辛いと思います。
仲間意識のために他者を排除する人たちを見ると、「自分が排除されたことはないのだろうか」とか「排除された人がどれだけ苦しみ、悲しい思いをするか分かるのだろうか」と感じてしまうのです。
もっとも、そのような気持ちが分からないからこそ、そうした所業ができるとは思うんですけども。
仲間意識や絆意識を全面にアピールするということは、いわば、つながっている人達同士でスクラムを組んでいるようなもので、お互いに関係性を認め合っているメンバー同士は非常に居心地が良いのですが、一方でつながっていない人を排除したり、もしくは居心地の悪さを与える効果もあります。
だから必要以上の仲間アピールは、仲間として受け入れられれば幸せかもしれませんが、もしそうでなければ相手から「お前は敵だ」もしくは「お前に何かあってもオレたち見捨てるから」と、わざわざ宣告しているのと同じなんではないでしょうか。
結論:自分が大好きで自分を守りたいだけなんじゃ…
上記3つの理由を見て共通しているなぁと思うのは、全部自分を守ることに必死なことです。
つまり、なんだかんだ言って、仲間至上主義者や絆至上主義者は極端に「自分が可愛い」と感じている人だと思うんですよね。
自分、超大事!(いや、そのきもちは分かるんだけど…)
自分が可愛いと思うのは誰でも当たり前で、それ自体は別に咎めることもないんですが(私も何だかんだいって自分のことが大好きだと思いますし)、ただ、仲間が大事といっておきながら、いざとなったら自分を守るために仲間であるはずの人々を平気で裏切る可能性があるところに、私は違和感を感じていたのかもしれません。
人間関係に悩むあなたに伝えたいこと
もしあなたが今の人間関係に違和感を感じているのであれば、何のためにその人(達)とつるんでいるのか、そしてそれが自分のためになっているのか、自分はどんな人間関係を構築したいのか、どんな距離感が自分にとって居心地が良いのかを、自分自身できちんと理解することが大切です。
何かしら達成したい目的を持って集まっているのか、あるいは「仲間」との「絆」や「一体感」に浸ることに快楽を感じているのか。
また、自分はどんな人間関係を構築したいのかについて、自覚的であることがストレスフリーな生き方に繋がると思います。
そこから人間関係の断捨離をするとかになると実行レベルが上がると思いますが、あなたが高校生でも大学生でも社会人でも、「人間関係は自分の力で変えられるんだ」ということをしっかりと認識して、自分にとって最適な人間関係を築ける(選べる)ための、ありとあらゆる手段を探してみてください。
今の世の中なら、SNSやネットもあるので、自分の力で(少なくともある程度は)人間関係を変えることは十分可能だと思います。
…そして私は、今後はなんとか孤独死しないよう、気をつけて生きてこうと思いますww
ちなみに、『友だち幻想』は、私にとって、自分に適した人との距離を考えさせてくれた良書。人間関係に悩むお年ごろの方には、良い気づきを与えてくれるでしょう。
共感するものが多かったです。
絆!団結!と一見良いことを言っているようですが、受け取る側は違和感を伴うこともある。
冷徹で自己愛が強く押しつけがましい。また、周囲の評価が不思議と高かったり…私の苦手とするタイプです。これが正しい!と一切譲らないので恐怖を感じることも…
文章で表現して頂いてありがとうございました。鎮痛剤になりました!
コメントありがとうございます。
仲間仲間という人は、みんなが同じじゃなきゃ気がすまないみたいな人が多いと思うので、程々の距離感を保つか、いっそのこと関わらないのが一番いいかなって思います。
大抵の場合、その場にいない人の悪口とかも言ってるタイプなので。。
少しでもお役に立てて何よりです!
仲間とかいいつつ空気を読まないとだめな集まりですからねー個性を潰す会とでも言いましょうか笑
コメントありがとうございます。
小学生の頃の学級は、ほぼ軍隊養成校の名残りみたいなものですからね。
モヤっとしてたので答え合わせできてスッキリです。
40代で同級生グループLINEに一応入ってますが、仲間意識強い人だけの自己満足誉め合い誉めちぎり、自慢。いつも決め台詞は仲間とかオレたちが居るやんとか。笑
超キモいんですけど、と思って見てる私の方が変なのか?と思ってました。
実際集まるとそんな人たちって確かに悪口言ってますね。
そろそろ見るのも嫌になってきたのでLINE抜けようと思います。
ほんとスッキリです。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
40代になっても心は学生時代のままなのかもしれないですね。
閉鎖されたコミュニティにおける他者への悪口は、大半が仲間意識の醸成なので、
そこに嫌気を感じるようになったら、抜けるべきタイミングなのだと思います。
少しでもお役に立てれて何よりです!
「友達」「仲間」「絆」
そんな言葉に疑問を感じながら生きてきました。
学校でのカースト意識した「友達」とか、凄く不快でした。
そこに排他性を感じたのでしょう。
実際に他を排除するための「友達」だったんだろうな。
「仲間」より「友達」を強要してくる人の方が嫌い。
利用しやすい道具としか思ってないくせに。